所要時間約3時間
中野市一帯を見下ろす東山公園まで足をのばす、程よいアップダウンがあるルートです 中野陣屋・県庁記念館→ 陣屋井戸→鈴泉寺→高梨館跡公園→王日神社→霊閑寺無相大師堂→日本土人形資料館→如法寺・大悲閣観音堂→泰清寺→常楽寺→延命地蔵→南照寺(川東善光寺) 松川土蔵群と八ヶ郷用水の小道→陣屋稲荷大明神→袋屋美術館 →中野陣屋・県庁記念館
江戸時代に「中野陣屋」、明治時代に「中野県庁」が置かれた中野市の貴重な史跡
天領中野陣屋は、享保7年までに高井群の幕府領陣屋を統合し、五万石余りの天領を支配する信州随一の陣屋となりました。
明治元年8月中野陣屋が廃止され、建物を使用して伊那県中野分局が置かれました。同3年9月、中野県の成立によって分局は県庁に昇格しました。
明治初年の地方行政を知る上で、中野県庁は貴重な史跡として昭和39年県の史跡に指定されました。
現在ここには陣屋時代からの石垣、井戸、稲荷社跡があり、当時の名残をとどめています。玄関前には「旧中野県庁跡」の標示塔がたっています。
現在は、中野市の歴史にまつわる様々な資料の展示に加えて、市民の皆様のイベント、展示等にご利用いただいています。
館内には落ち着いた雰囲気でのんびり過ごせるカフェスペースも併設されています。
現在も湧き水を湛えている
中野陣屋があった当時をしのばせる貴重な遺構。
井戸枠には「不亡井(忘れずの井戸)」の文字が刻まれている。
高梨家が開基した寺
鈴泉寺は、明治時代には現在の中野小学校の基となる研智学校に使用されていました。
堅牢な山門はかつて飯山城の門に使われていました。
参道の入り口にある石碑に刻まれた「南無妙法蓮華経」の文字から伸びている線は「ヒゲ題目」と呼ばれ、人々に救いの手を差し伸べていることを示しています。
鎌倉時代から戦国時代にかけて活躍した高梨氏の居館跡
小館の高梨城は高梨政盛の全盛時代、永正7年(1510)越後の長尾為景(謙信の父)に加担して敵将を討ちとった魚沼郡長森原で戦いで信州へ凱旋した前後に築城したと言われています。
のち高梨城は、武田信玄勢の侵攻によって落城し、高梨氏(政頼の代)は越後上杉氏を頼りました。武田氏が天正10年(1582)滅亡してのち高梨氏(頼親の代)は、故郷へ帰還することができましたが、慶長3年(1598)上杉景勝に従って会津へ去りました。以来、堀の内は、ゆかりの人達によって遺跡として護られてきました。
周囲には空濠・土塁が残り、庭内に稲荷社・井戸跡・庭石なども残っています。
市が進めてきた高梨館跡公園の整備が終わり、平成13年11月2日、開園およびしゅん工式を同公園で実施しました。
中部地方の武士団の文化的レベルや方形館の発展過程を示すものとして高く評価され、平成19年2月には国指定史跡となりました。
毎年4月上旬になると、タカトウコヒガンザクラが見ごろを迎える、市内でもっとも早いお花見スポットとして親しまれています。
高梨一族の氏神を祀っている
高梨館の北東(鬼門)に位置し、館を守る氏神を祀っています。
もとは市の東部にある鴨ヶ嶽に鎮座していたのを、高梨氏が高梨館そばに奉還したと言われています。
日本三大霊地のひとつ霊閑寺と無相大師祖堂
霊閑寺は、高梨家に生まれ、後に臨済宗妙心寺派の開祖となった無相大師が父の菩提を弔うために創建しました。現在は、京都妙心寺・岐阜県正眼寺とともに妙心寺派の三大霊地のひとつに数えられています。
参道の正面に見える無相大師祖堂は、無相大師六百年忌を記念して昭和34年に建立されました。
5月には赤や白のつつじの花が咲き誇り、華やかな風情を楽しめます。
愛らしさ溢れる郷土玩具・土人形の世界
東山公園にある校倉つくりを模して建てられた日本土人形資料館では、中野土人形をはじめ全国の土人形約2,000点余を収蔵・展示しています。
土人形絵付け体験も随時できますのでお気軽にどうぞ !
京都の清水寺と同じ、懸崖造(けんがいづくり)の観音堂
如法寺は真言宗智山派の寺院で、鴨が岳山麓の西向き緩斜面、東山公園内に立地しています。この寺院は、天長3年(826)に空海(諡号、弘法大師)が真如法親王を派遣し創立したという伝承があります。後世、荒廃した寺院は応永19年(1412)に中野城主高梨規政が堂宇を修理し再興しました。したがって、高梨規政開基とはこれ以降のことです。その後、堂宇は兵火等により消失、再建を繰り返したようです。
現在の大悲閣観音堂は、参道奥の石段を登った高台に建立されています。この建物は、入母屋造り桟瓦葺き屋根の妻飾りを正面裏面に向け、正面部の一部が斜面から乗り出す舞台形式の外観が大きな特徴です。平面の形状は、桁行5間、梁行3間で、桁行正面2間は吹き放しの外陣となります。これは外陣空間を開放することで参拝者を招き入れ易くする効果をもたらす構造です。外陣への入室は懸崖造(懸造)のため側面に階段が取り付く、平入りとなります。四周の切目縁は四手先挿肘木で支え、擬宝珠高欄を廻らしています。
身舎柱は上端粽付円柱を配し、桁行奥三間を内陣としています。内外陣境は格子戸はめ殺し、両脇一間に引き違い板戸とし、奥二間と裏面を板壁として、縁長押と内法長押を内陣四面に廻しています。天井は内外陣とも格天井で、格間の板張に彩色及び極彩色の観音絵図が描かれています。軒は二軒に繁垂木を掛け、板支輪に綾紋彫を施しています。側面に付く向拝は一間で、礎盤に几帳面取角柱を載せ海老虹梁で身舎と繋いでいます。虹梁形頭貫には正面に唐獅子、側面に象の木鼻が取り付き、中備には龍の彫刻を納めています。この向拝の象と龍の彫刻には越後の大工の手法が見られます。
なお、鰐口には「嘉永四(1851)辛亥年高井郡中野如法寺十八世榮寛代」の銘があります。この建物の建築年代は、天保7年(1836)造営との伝承があり、また建築様式として虹梁絵様にその時代の特徴が読み取れます。(中野市ホームページから転載 2016.10.6)
戦国時代に北信一帯を治めた高梨一族の菩提寺
泰清寺は高梨家8代目当主 高梨高家が正和元年(1312)建立した高梨一族の菩提寺です。
参道の正面からは唐様の造りが珍しい山門が目に留まります。
上杉謙信の菩提を弔うために再興
天正11年(1583)上杉景勝の寄進によって、養父上杉謙信の菩提を弔うために再興されたといわれています。
山門と本堂の間にある羅漢殿には、雛壇状に五百羅漢が安置されています。
現在の本堂は文政2年(1819)に再建されたもので、「二十四孝」を題材とした八場面の彫刻が施された欄間は中野市の有形文化財にも指定されています。
4月になると本堂の前にある枝垂れ桜が満開となり、一層風情あふれる佇まいになります。
弘法大師が安置したといわれている
南照寺の南側に安置された延命地蔵は弘法大師が諸国をめぐった際に、南照寺に立ち寄り、彫刻したといわれています。
長寿、子どもの厄払いを願って人々が訪れます。
川東善光寺の呼び名を持つ
南照寺は長野市にある善光寺から千曲川の東側にあることから「川東(かわひがし)善光寺」のとも呼ばれています。
撞木(しゅもく)造りと呼ばれるの形の本堂、三尊形式の本尊など善光寺と共通の特徴を持ち、堂内には善光寺開基者の本田善光一家の像も安置されています。
天領中野陣屋の鎮守として祀られた
並んだ鳥居の先には「市神(いちがみ)」祀られています。
中野ではかつて、1・4・7の付く日に開催する九斎市が行われていました。
俳人小林一茶が晩年逗留した袋屋清左衛門邸に、一茶ゆかりの品や歴史ある美術品が展示されています。
一茶が眺めたといわれる庭園は、今もゆったりとした雰囲気が残っています。
現在は袋屋清左衛門醸造として受け継がれ、「陣屋みそ」は信州中野の味として親しまれています。